千手院のこよみ
千手院のこよみ詳細

尊照山 千手院とは

 当山は山号を尊照山千手院といい、高野山真言宗の寺院です。
 徳川幕府成立のおり、堀尾吉晴が出雲隠岐の大守として入国し、松江に城を築く時、千手院の僧、長海律師に命じて地鎮祭を行いました。この時の様子は「雲陽誌」や藩の右筆、平賀隆顕が元禄の頃に書いた「尊照山記」に詳しく記されています。築城に当り本丸の鬼門(北東方向)に当たる此の地に広瀬から当山を移して鬼門封じの寺として建立されました。
 以来堀尾、京極、松平家の治世を通じて国守代々の祈願所、城下七箇寺の一つとして重きをなし、松平家の時代には法橋素運筆の登城本尊が祭られ、新年には三の丸、大般若の間において大般若会が奉納されました。

千手院から望める松江城

 本堂、護摩堂、鎮守社、経蔵、僧坊、大門、鐘楼が整い、隆盛を見ましたが、延宝6年(1648年)城下の大火で伽藍は悉く焼失し古記録など全てを失ったと、雲陽誌に記されています。唯一残った干手院文書の断片により、古く鎌倉時代に存在したことがわかりました。
 また平成17年の本尊修理の際、千手観音が平安期の作であることが判明し、平賀隆顕の“尊照山記”の記述が証明され、消失を免れた松平直政令旨などと共に山陰の門首としての寺格と文化8年の類焼後、六ヵ年を経て、文化13年再建され今に至る諸堂には、江戸時代の遺構が見られ、不動堂什器など約300年近くを経て、今も使われています。明治4年には教導所第二区となり、現在の松江市立城北小学校の前身の一つとなりました。
 明治の名僧で、夏目漱石の“我輩は猫である”に語られる雲照律師が若き頃は修行に励んだ寺であり、明治34年には小松宮彰親王が来山され、多くの人士の訪れる処となりました。藩政時代植栽された枝垂れ桜は、恵まれた環境のもと大きく育ち、松江市指定の天然記念物として毎年美しい花をつけ人々の目を楽しませています。
 昭和になって松江城の解体修理に際し、当山の祈祷札や鎮物などが出土し貴重な資料となり、昭和26年11月29日柱立柱式が古式により登城本尊を城中に奉安しとり行われました。干手院住職導師の下、島根県下全真言宗寺院出仕のもと、地鎮祭が仏式により執り行われました。
 境内は城下町松江を眺望できる最適の地であり、松江城を最も美しく見ることのできる唯一の場所といえます。また松江市緑地保全区域として緑豊かな憩いの場として、出雲観音霊場第26番、島根札1番、出雲十三仏霊第6番として静かな信仰の場でもあります。